そんなに緊張しないで。もっとリラックスするのよ、レベッカ……。
肩の力を抜いて。ほら気持ちいいでしょう? 足首から太ももにかけ、撫でられるような、下から上に這い上がってくるような感覚。 そのまま、背中につうぅと柔らかな圧がかかる。 「あ……はい………」 ぞわぞわしていたけど、だんだんと感触が馴染んできた。まるでハチミツをかけられたみたいに、全身が溶けていきそう。 うつ伏せの私は半分意識が飛んでいた。そのまま背中から肩までくるくると触られる。 「肩と腕がパンパンだわ。なんのお仕事しているの?」 「パン屋と…………あと召使いです」 「え? めし? 飯使う?」 「召使いです」 「召使い? こんなかわいいお嬢さんが? それは大変ね。どこで召使いを」 「ええと……」 無理だ。瞼も脳も閉じてしまう…………。 **** 早朝の仕事の準備をしていると、少し汗ばむ季節になっていた。私がこのアパートに来てからもう二ヶ月は経った。 カルバーンに引越して良かったことは、美味しいパン屋で早朝働けたこと。 朝が早過ぎて人手不足なこともあり、短い時間でいいお給料がもらえるのは非常にありがたい。 普通だったら一日働かないともらえない金額が、早朝五時から八時の三時間、半分の時間でもらえるのだ。 それに町の人たちの朝食作るってことは、みんなに生きる糧を作ってるってことだもの。 すごく嬉しい気持ちになる。 そして帰ってきてから少し休憩して、その後はアレックスの手伝いをしている。 こっちの方がストレスは当然溜まるかもしれない。 「今日も、あの変人のところに行くの?」 パン屋の同僚、ナナが後ろから背中をつついてきた。彼女はお団子にしていた髪をほどいて、頭を小刻みに振る。 私たちは仕事を終えて、通りを歩いていた。 「まぁ……」 「ベッキー、あなた人が良すぎるんじゃない? ただ働きなんでしょ?」 「ただ? うーん、どうかなぁ」 少なくとも、私のことをベッキーではなく、ちゃんとレベッカって呼んでくれるけど。 アレックスは金銭感覚がおかしいから、そんなにもらえないって額のお金を渡してきたりもする。 そんなこと言ったら、ナナもアレックスのところで働きたいなんて言い出しそうだから絶対に言わないけど。 「ねえ、ベッキー。そういえば、ナイトブロックの奥にお洒落なサロンができたの知ってる? 少し遠いけど」 「サロン? お茶するところ?」 「違う、違う。香油……アロマとか言ってたわ。いい香りがするオイルを塗って全身マッサージをしてくれるの!」 「へぇー、もう半年ぐらい行ってないかも。マッサージ屋さんは」 私があまり興味を示さずにそう言ったので、ナナはわかりやすくムッとした。 「違うよ、ザルダのおっさんがやってるマッサージ屋じゃなくて。芋みたいにみんなでゴロゴロじゃないの。ローズマリーのサロンは別格なの!」 最近新しい彼ができたナナ。前から流行り物や期間限定など言われると、わかりやすく飛びつく子。 新しいお店ができると、誰よりも先に行きたいタイプだ。小柄なんだけど、バイタリティはなかなかだわ。 「女性オーナーが一人。お客も女性一人。完全個室。でも広々としていて素敵なの! オーナーのお家なのよ。施術前には浴槽に使って体を温めるの。ハーブティーも美味しいし」 興奮して話し出すと止まらない。でも肝心のマッサージは? 雰囲気に飲まれて腕はたいしたことなかったっていうのが、一番がっかりだから。 節約家の私はナナの話を遮って尋ねる。 「それでマッサージは上手かった?」 「それは……」 ***** 朝の九時半、アレックスはやっと動き出し支度を始める。 長くて、艶のある黒髪を無造作に縛り、洗面台へと向かっていく。 形の良い額、髪の生え際、凛とした横顔に思わず見惚れてしまう。 私も同じ女なのに、こうも違うのよね。くせっ毛の私は、髪を伸ばしたくてもいつも綺麗にまとめられなくてイライラして挫折してしまうのに。 それにしても、薄汚れた大きな黒いシャツを着て、自分のスタイルの良さを隠しているのはもったいないといつも思う。 足は長く、ウエストは細くて、私の倍ほど大きい胸も持っているのに。 私の服のセンスが悪いと彼女は言うが、ダボダボの服を毎日着ている自分はどうなんだっつうの。 まぁ、胸を隠してるんだろうけど。 「アレックス、ここにポット置いておくね、私……」 「おい、もう注いでおいてくれ」 ミントティーの入ったティーポットにポットカバーをかけ、出て行こうとすると呼び止められる。 「アレックスはすぐ飲まないないから、自分で入れて。冷めちゃうでしょ」 「あぁ?!」 不機嫌にそう言って、蛇口をひねるアレックス。さらにバンバンと蛇口を叩く。 「くそっ! 水が出ない!」 蛇口を全部回したのか、遅れて盛大に水が飛び散る。 「うおっ」 「また! 水が飛び散ってるわ!」 今いる三階のアレックスの部屋は水圧の関係で水の出が悪い。 「拭いといてくれ」 アレックスは周りを水浸しにしながら顔を洗い、自分の服で濡れた顔を拭いた。くびれた腹と豊満な胸は半分以上見えてしまう。 ……ちょっと、ドキッとしちゃうじゃない。 白くて細い腰回りが食べてないせいで、さらにへこんでいるし胸の丘陵が思いっきり見えたわ。もう少し気を使ってほしい。無防備というか大雑把というか……。 私はタオルをアレックスに押し付ける。 「シャツで拭かないで。新しいタオルで顔を拭かないと意味ないよ」 「うるさいな。買い物を頼むんだが……」 パチンと私の頬を両手で挟んで、顔を近づけてくるアレックス。 彼女はなかなか人を寄せつけない。でも慣れてくると 、その反動なのかかなり近いのだ。 「ご、ごめんなさい、アレックス。今日はこの後に予定があるの。だから買い物なら後で行くわ」 「ああ?………」 彼女の目つきが途端に変わった。 あぁー、ちょっと面倒くさいかもしれない。 ***** 深く息を吸って扉を開けると、ウインドチャイムが満天の星空のようにキラキラと鳴った。 「はーい。お待ちしていましたぁ」 朗らかなローズマリーさんの声。でも彼女は私を見た途端、息を止めた。それから私の肩にそっと手を置く。 「どうぞ……こちらへ、レベッカさん」 私はソファまで彼女にエスコートされた。 「あ、あの……今日はやめておきますと言いに来ました」 「あら、そうなのね、残念。では、またいつでも来てくださいね」 金色の長い髪を、緩めにお団子にし、まとめているローズマリーはまるで聖母のよう。 ふんわりとした薄い色のワンピースも素敵だ。優しくされ、思わず涙が溢れてしまった。すぐにタオルを渡してくれる。 「すみません……予約していたのに」 「大丈夫ですって…… よかったら足湯だけでもやらない? 本当に少しの時間だけ。10分よ。もちろんお金はとらないわ。お湯が張ってあってね……いま足湯用にお湯を少し移すから」 そうだった。まずお風呂に入って体を温めるんだ。 私、とんでもなく迷惑なやつだ。彼女はお湯を温めて待ってくれていたのに。それがどれだけの手間かはわかっている。いい塩梅に湯を沸かすのは難しく、時間もかかる。 困った客っているもんねぇ、なんてナナとたまに言ってるのだけど。 それって私だわ……最低だ。 それに、もういい大人なのに人前で泣くなんて……情けないやら、申し訳ないやら。 ああ……ほんと、すごく落ち込む。 「スカートを少しもちあげるだけだから、簡単でしょ。本当にすぐ終わるのよー。温めると疲れが取れるわ」 風呂場にスツールを持って私を座らせると、小さい鉄の桶にお湯を移す。 「どう? 気持ちよさそうでしょう? 靴下を脱いでくれる?」 「はい」 ローズマリーは、私の裸足になった足をそれぞれ持ち上げてゆっくり桶に入れた。 そして二、三回ふくらはぎを優しく押した。 あ、すごく気持ちいい……。 ふくらはぎが凝っているのがわかる。これ、アレックスにやってあげたい……彼女仕事モードになるとずっと歩いているみたいだしって……いやいやいや。 なに考えてるのよ、私。ここに来てまでアレックスのことなんて考えたくないわ! その後、ローズマリーはお湯を丁寧にかき混ぜ、板で蓋をして冷めるのを防いだ。 「私はむこうで事務作業しているわ。ここでレベッカは少しゆっくりして。あ、あとこれ」 ホットタオルをポンと渡される。 ああ……あったかい……。 「顔に置くといいわ。あと首とかね」 そう言って立ち上がったローズマリー。 「うぉーーっと!」 え?! ローズマリーが天を仰ぐようにし、ポーズをとって足を大きく開いている。まるでヨガのよう。なにかの儀式? なに? どうしたの? 「ご、ごめんあそばせ。タイルで滑ってしまったわ。こうみえてうっかり屋でね」 思わず吹き出した。それをみてローズマリーも肩をすくめて笑う。 「では、終わったらタオルで拭いて出てきてね」 美しくて余裕もあって、自分とは違う世界の人だと思ったけど。飾らなくて話しやすいかも。 ホットタオルを顔に置いた途端、また目からたくさんの涙が溢れてきた。 ああ、もう嫌だ。でも泣けるのは今しかない。 ローズマリーは私が泣くのを我慢していることすぐわかったんだわ。 私がここに来ることで、アレックスとくだらない喧嘩をしてしまった。あんな拒否反応をされると思わなかった。思い出すと腹が立つ。 ***** 「へぇぇぇ…………会ったこともない知らない女の家に行って、風呂に入って全裸になって、体を揉んでもらう? お前はあたしが思っていた以上に、頭が弱いんだなぁ」 なにそれ? なにその嫌味な言い方! アロマのお風呂に入るんだから、そりゃ服は脱ぐわよ。やめた方がいいと思うならそう言えばいいのに。 「でも女性専用だから安心よ。男の人に覗かれる心配はないわ」 はぁ〜と大きなため息をつくアレックス。 「その女だよ」 「え?」 私はとぼけた声を出した。 よく信用できるな。追い剥ぎに自分から行ってるようなもんだ。密室で一対一なんてな。まして服を脱ぐって? はっ、こりゃ鴨がネギ背負ってってやつか? なんてことをぐだぐだ!! 「あーーー! もう!」 ホットタオルを目から外すと、私は大声を出した。ああ、本当にもうダメなんだ。嫌われたわね。 何も始まってないのに……私が終わらせちゃった。 自分がこんな残酷な人間て知らなかった。アレックスのこと、人を殺せるでしょなんて言ったのよ。酷い。許してもらえないわね。 でもこれは……これは言わせてもらおう。 「わ、わたし……落ち込んだのよ。普通女同士の旅は一つの部屋よ。なのに確認もしないで部屋を別にされるなんて…………」 「…………」 「そんなに私のこと嫌いなんだって思ったんだよっ!」 突然、アレックスは私を抱きしめ、心臓が止まりそうになった。アレックスの声は震えていた。 「嫌いな奴と一緒に船になんか乗れないし、飯も食べない。口も聞かない。そんなに器用じゃない。レベッカ、お前がいなくなったら困る」 私は声を殺して泣いている。アレックスの柔らかい胸に顔を埋めて。恥ずかしいけど、もう仕方なかった。 「わかっただろ? 部屋を別にしたのは、お前のためだ。無法島に来たら、この問題は避けられない」 「狼になっちゃうから? 夜中の12時に? ……動物だから鼻や耳がいいの?」 アレックスは無言だった。 さっきまでは寒いと思っていたのに、アレックスの体温も伝わって、甲板の上は夜風が気持ちよく感じた。 「ローズマリーは知ってるのね」 嫉妬ではない。私は安堵して彼女の名前を出したの。前みたいなやきもちじゃない。アレックスの理解者がいてよかった。心からそう思ったの。 「まあな。あいつは人の感情の色とか、いろいろわかるらしい。だから早い段階であたしがおかしいことに気づいた」 あぁ……ローズマリーって、やっぱり普通じゃないのね。 「怪我をしたときは、狼の姿でローズマリーの家に行った。さすがにあの女でも、ひえぇぇぇって驚いてた」 私は吹き出してしまった。想像がつくわ。 「……あの狼がアレックスなら怖くないわ。私のこと嫌いで避けてたわけじゃないなら、よかった」 「……ありがとうな」 珍しい。否定しないのは認めたと言うこと。アレックスは私の髪をくしゃっと触る。いつもの癖。潮風でくせっ毛はさらにくしゃってなってるし、ベタついているけど。 「ありがとうなんて言えるのね……あの男の子、ジョーイを探すのはでも大変だったでしょ? いくら嗅覚が優れているからって、あんな広い山で
「そう。そうなの、危機感ゼロよね」 そしてまた沈黙。 波の音が二人の間を隔てていた。アレックスはなにも言わない。長い髪はなす術もなく潮風に持っていかれて顔にかかったまま。 私は続ける。 「あの宿、転落防止で開かない窓が多いのよ……部屋もね。窓が開かないから無理やり割ったのね。そして二階から飛び降りた。狼だって足を痛めるかもね。男にも蹴られていたし」 「……な、なんのことだ」 アレックスの足は少し落ち着きなく動き始めた。 「殺そうと思えば簡単に喉とか噛めたんじゃないのって……」 酷いわ。 「怪我させないように手加減をしたんでしょ?本当はもっと……」 私、すごい酷いこと言ってる。声が上擦っていた。 「あんなやつら噛み殺せばよかったのに!」 私は叫んでいた。ああ……ダメだ……。 でもやめられなかった。 「だから……蹴られてしまったのよ。本当の狼なら私たち大怪我……死んでいたかも」 私は泣いていた。アレックスは黙って私を見つめていた。 「アレックス! 何か言ってちょうだい」 「まぁ……あぁ……不幸中の幸いとしか言いようがないな」 「なによ、それ。前からおかしいと思ってた。真夜中は絶対に私を部屋に入れないし。私がそばにいるときは追い出していたわ! 初めて会った夜もそう」 初めて会った夜は、なにからなにまで狂ってた。でもなぜか今は愛おしいとさえ思う。 「アレックスの部屋の一番奥、たまたま鍵が外れてて扉が開いて見えちゃったの。一度だけ」 私はここで大きく息を吸った。言うべきか一瞬迷った。今なら冗談だと、全部笑い飛ばせる? 抱きついて、嘘よ、ごめんごめんて……。 いや……。もうそれは十分かな。 「奥の部屋、大きな檻があった。あれは自分用なのよね? 動物の毛があちこち床に落ちているのだって……ペット探偵をしているからじゃなくて-」 「わかったよ」 八百屋の子が扉を開けようとして、あのとき開けるなと怒鳴ったわ。すごく怖かった。 「なにが? なにがわかったの?」 「もういい」 アレックスの抑揚のない声。なんにも興味がないときの声だった。 ああ……終わった。 もう私たち、ダメなのかもしれない。
無法島が小さくなっていく。私は黙ってその場から離れた。 「おい、レベッカ。具合悪いのか?」 アレックスが私の腕を強く掴んだ。彼女は眉間にしわを寄せ、困った顔をしている。その表情は嫌いじゃない。 私は無表情のまま、視線をそらした。 「風に当たってくる。船酔いしたみたい」 「はぁ? 今、出航したんだぞ? もう船酔い? まぁ…………あたしは休憩所で寝てくるからな」 「うん……ゆっくりしてきて」 一人甲板に残って、真っ暗な海を眺めていた。いろいろ楽しかったわ、とても。マリアたちのショーもそれはそれは素晴らしかった。ドキドキして興奮するような歌とダンス。 だけど聞いてはいけないこともマリアから聞いてしまった……何か面白かもしれない。 まぁ、その件はカルバーンに着いてから考えよう。 今はもっと大事なことがあるの。これからのアレックスと私のことよ。 ***** 無法島が見えなくなり、しばらく経った。真っ暗な海の上。なにも音がしないより、少し荒れた波の音が私にはちょうどいい。心のざわざわも聞こえなくなりそうで。 船に揺られながら、私はアレックスに聞かなくちゃいけない。 アレックスが暫くして甲板に上がってきた。 「レベッカ……お前、まだ顔色が悪いな。大丈夫か?」 「あぁ、うん。大丈夫よ」 そう言われて、確かに体調は優れないのだろうと思った。でも頭はすごくクリアだった。 「アレックス、大事な話があるの」 聞くなら今しかない。時間が経ったら、アパートに戻ったら、うやむやになって全て曖昧でわからなくなってしまう。アレックスは黙って私の目の前に立った。 「ねえ、アレックスは疲れてないの?」 「あぁ……疲れてるよ。ちょっと寝たけどな。最悪だな。ほとんどただ働きじゃないか。しかもおかしなことばっか」 「そうね……足は平気?」 「あぁ、まあな。もう治った」 「ありがとうね、アレックス。悪い観光客二人から守ってくれて」 「ああ……」 アレックスは返事をした後、はっとして、無言になった。アレックスの失態なんて本当に珍しい。よほど疲れが溜まってるのね。 私はふっと笑った。アレックスは片目をつぶって顔をしかめた。分が悪いと足をガタガタさせたり、片目をつぶるわよね。 私が優位に立つのはこのときが
次の日、グエンのお葬式は厳かというよりは、お祭りのように盛大に広場で行われた。 人々は、グエンが落下した場所に(違う場所でとっくに死んでいるのに)花を一輪ずつ置いて、手を合わせた。 今まで忘れ去られていて、誰も鳴らさなかった鐘楼の鐘を、黙祷するようにみんなが鳴らしていった。 私も落ち着いた頃に、一人で鐘楼に登って鐘を鳴らした。鐘楼から見下ろす街並みや、夕陽はとても美しかった。 ずっと見ていたかったけど、後ろから観光客が何人か上ってきていたから、私は長居はせずにすぐ降りた。 よくわからない相手に同情し、人々は悲しみを分かち合い、なんだか感動すらしている。悲劇の舞台を観劇した後のようにー 知らない方がいいことってたくさんあるんだわ……。 結局この日も、無法島に私たちは泊まることにした。アレックスは、ヌーンブリッジのある組織の悪事をいろいろ知っていて、それを料理長やマリアに詳しく教えていた。きっと無法島にとって役に立つのね。 私は厨房でパンを作る手伝いをしたり、美味しく作るコツを教えたりもした。そのとき無法島の噂話もいろいろ聞こえてしまった。 ノーマン・ダークが本当はこの世にいないことなど。数年前に病気になってもう亡くなっていたの。それを知られたら周辺の街がどうするかわかっているのね。 無法島はノーマン・ダークに守られているのよ。それを街の人達もよくわかっているの。 ノーマンを演じていたのは、大衆食堂で暴れた人だった。彼は本当は無法島の人間だったの。これには驚いたわ。 ***** 「最終便、出港します!」 船長が呼びかけ、汽笛が鳴った。 アレックスが叫ぶ。 「ちゃんと給料、本島に持ってこい! カラバーンのメープル通りだぞ!」 「はいはい、まぁ、気が向いたらなぁ」 ウインクするグエン。 「ふざけるなテメェ! どれだけ働いたと思ってんだよ。グエンの金の亡者! くたばれよ」 港に残ったグエンや街の人々は、満面の笑みで手を振っている。マリアや料理長は忙しくて来れなかったのは少し寂しかった。 「アレックスー! また来いよー」 「二度と来るか、お前はアラバマの二番弟子だ! あたしには一生、敵わないんだぞ!」 アレックスは大声で叫んでいる。私は精一杯の笑顔で、みんなを眺めた。
「離してください」 できるだけ低い声でゆっくりと言った。 「黙っててやるからさ、こっちに来いよ。明日になったら一緒にヌーンブリッジに帰ろうや」 「ふーん。よく見ると、可愛いなぁ。俺たちの部屋に来なよ」 かなりまずいわ。 「結構です!」 後ろからも小さめの男に腕を掴まれる。 「いい土産ができそうだぜ。最近パッとしないからな」 「やめてよ。人を呼ぶわ」 「誰が来るってぇ?」 「無法島には保安部隊はいないぜぇ……」 「ノーマンの部下は今夜はいねぇぞ。外出禁止って広場でお達しが出ただろ? 人が死んでんのに……規律を守らないと、こーなるんだよぉ」 なに自分たちに都合がいいこと言ってんのよっ……ギラギラした目が間近に迫ってきて、顔を掴まれる。 やめて……。 そのとき、ガラスが割れる音が響き、目の前に大きな獣が現れた。 真っ赤な光る目ー あのときの獣! これ以上ないピンチの上に、獣に食い殺されるなんて運が悪すぎる。私ってそんなに悪いことした? そりゃ、外に出た私がいけないんだけども! 「なっ……野犬か?」 「違う……こいつ、狼だ」 男二人が私を盾にする。卑劣極まりないんだけど! ……て言うか、これ狼? こんなに大きいの? 「ちょっ、……卑怯者!」 「お前が食われろ!」 「男のくせに、女を盾にするの?」 私も負けじと言い返す。こんな所で死にたくない! 「離して……バラバラに逃げましょう!」 提案したが、二人とも離してくれない。 「う、うるせえ!」 唸り声を上げ、狼は大きな口を開けて私たちに飛びかかる。 ひええええぇ! 狼はなぜか私を飛び越え、大柄の男の腕に噛みついた。男は叫んで、足で狼を蹴り飛ばす。 狼は一旦離れ距離を取ると、唸りながら私たちを赤い目で睨んでくる。 ああ……今まで生きてきて、今が一番ピンチだってば!アレックスのことが頭をよぎる。 もう会えないかもしれない……。 狼はもう一人の小柄な男の足に噛みついた。男は足を振り解こうとするけど、狼は離れない。 「い、痛えー! た、た助けてくれ!」 「くそっ!」 大柄の男が怖がりながらも、また狼に蹴りを入れた。 狼が足を離した瞬間、男二人はなにか叫びながら逃げて行った。
ゆっくりとお湯に浸かりながら今日一日のことを思い返した。このまま寝ちゃいそう……。 アレックスは鐘楼から飛んだり、屋根の上では危なっかしく戦う真似をしたり、男の死体も運んでいる。さすがにゆっくりしたいわよね。 私が協力したことと言えば、広場の観客に混ざって、人々を誘導すること。 『キャー、見て! あれを見て!』 と、鐘楼を指差した女……あれは私なの。大人も子供も、広場にいた全員が煙突のような高い鐘楼を見上げたわ。 他にも、なんて野蛮な!獣ー!とか、キャーやめてー、危ない!など、かなり煽ったの。 そうするようにグエンに言われたから。屋根の上での演技は危なっかしくて、アレックスが落ちるんじゃないかと心配で、ハラハラして本心で叫んでいたけどね。 それにつられて皆もどんどん声を出した。あとはもう言わずもがな……どんどん盛り上がっていった。 広場を後にするときは混乱がないように、早く帰りましょーとか、こっちが空いてますよなんて言ったわ。 話し声が聞こえた。 広場で手配書と同じ顔のグエンが落ちてきて(本物のグエンではないけど)近くで見た見物客は寒気がしたそう。しかもノーマンが触ったら落ちた男は涙を流したって。 ノーマンが、男の体から出てきた魂を奪ったように見えたって得意げに話していて、みんな興味津々に聞いていたわ。まるで怪談話みたいね。 多分なんだけど、あの死体は半分凍っていたから、運んでいるときも冷気が漂って寒かったの。それに人間が触れば体温で、男の体に付いていた氷の粒が水蒸気になって涙に見えたのかもしれないわね。 なんて……そんな科学者みたいなことを言っても、広場の人たちは、あの場で死んだと思ってるし、怪奇現象としか思えなかったわよね……。 それにしても女の子の二人旅って、寝るときまで楽しくおしゃべりするもんだと思ってた。 そういやアレックスと夜を明かしたことはない。まぁ、アレックスはベラベラ語り合うなんて嫌だろうけど……。 ローズマリーとだったら? お泊まり会は開催されたのかな? そんなことを考えながら、湯船から出る。 一人で部屋にいても、お酒が飲みたいわけでもなく、窓から夜の通りをぼうっと眺めていた。 ガス灯の横に、高そうな書類鞄が置きっぱなしなのが見えた。誰だろう……忘れ物かしら? 今日は夕方